エイプリル・フール。
「人を信じて傷付く方が良い」と教えられた私にとって、1 年で最も恐れる日が今年もやってきた。
やってきてしまった。
私は目と耳を塞ぎ、その場にうずくまり、家どころか部屋から一歩も出ず、貝のようにして 1 日を過ごす、と決めた。
何も見ない。聞かない。
私は誰からも傷つけられたくない。
そして同じくらい、誰も傷つけたくない。
そんなの理想論だと、傷つけ傷つけられた分だけヒトは成長するのだと大人は言う。
でもそれは、自分たちと同じ境遇の可哀想な大人を増やすための方便にしか聞こえないし、実際、方便なのだろうと思う。
信じ、また自分も信じて貰える。純粋に。
大人たちはそんなネバーランドを作ることが出来なかった。
『だからこの先、誰にも作らせてなるものか』
そこにあるのは悲壮な決意。
可哀想な大人が作り上げた卑劣な世界の片隅でただ私はうずくまる。
「人を信じて傷付く方が良い」
だけど傷は治らない。
誰も治してはくれない。
どころか、「うっそぴょーんゲラゲラゲラ」の一言で私がひどく傷ついたことも全て無かったことにされてしまう。
そこにあるのは無だ。位置エネルギーの唐突かつ完全なる消失。
信じるからこそ飛べた。なのに翼を奪われ空中に取り残される。
レッドブル売ってるコンビニも近くに見当たらない。
かつ抗議も許されぬ。
「空気」という、実に量子力学的な何かを持ち出されて、「え、なにマジになってんの?」「は、冗談も通じないのかよ。ツマンネーヤツだな」とこちらが悪いことにされてしまう。
ならばもう何も聞かない、何も見ない。
そうするしかないじゃないか。
「人を信じて傷つく方が良い」
しかし傷ついたあとの事を金八先生は教えてくれなかった。
だから私はいつも傷つきっぱなしだった。
笑いながらナイフを振り回す友、同僚、上司、後輩、恋人、家族、猫。
彼らを前に、私はただ笑って佇立するしかなかった。
「傷つけられたら牙を剥け」
“傷ついたあとのこと”を教えてくれたのはそう、チャゲアスだ。
そうだ。そうだとも。やられたらやり返せ。自然なことだ。
一時期、私はその考えに賛同していた。
とてもさえたやり方であるように思われたのだ。
それもたったひとつの。
荒んでいた時期だった。
私が最も大人に近付いた瞬間でもあった。
……そんなの、可哀想な大人の仲間入りを宣言するのと同じだ!
ありとあらゆる場所に設置された大人の狡猾な罠。
嘘をつき、嘘をつかれ、傷つけ、傷つけられ。
あとはもう坂道を転がるように。
もうあの、空に手が届くかのように思われた高い高い坂の上には戻れないのに。
あのステキな場所には二度と立てないのに!
永遠に。永遠にだ。嗚呼。
私ひとり、何が出来るのかは判らない。
だけどこの一歩は、大きな一歩であると信じる。
親が子に、隣人が隣人に、騙し騙される一日。
エイプリル・フールに、捻りに捻った、凝りに凝った嘘をつく。
そんな狂った風習は、スルーしよう。
せめて、このブログでだけは。
まあ単に、あちこちのブログのネタがもー面白すぎて嫉妬しちゃうからウチではそういうのはやんないよ! そしてやんなかったよ! というお知らせなんですけどね。
あら、ぺけさんに読ませたいお話。
なんでも自分基準で考えたらああいえちゃうんだけど、世の中には自分より遙かに繊細な人も居るって言うのを思いだして欲しいのよねぇ。
楽しませるつもりが悲しませる事になるならなにもやらない方がマシって意見に賛成でありんす。
そもそも4/1は年度初めなので日本にはエイプリルフールは合わないと思います。
4/3位なら許せますw
当方 S 氏及び P 氏と全く面識ないので、
S 氏のブログのエイプリルフールネタや
P 氏の主張に対するコメントは控えますハイ。
迂闊に何か書いてこっちまで炎上したらたまったものじゃない!年度初めで忙しいんだから! もう!